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酒井忠義
酒井 忠義
酒井忠義 (出羽国庄内藩主) (1644年-1681年) (さかい ただよし)
酒井忠義 (若狭国小浜藩主) (1813年-1873年) (さかい ただあき) 京都所司代

酒井忠義 (若狭国小浜藩主)
酒井 忠義(さかい ただあき、1813年8月4日(文化 (元号) 文化10年7月9日 (旧暦) 7月9日) − 1873年(明治6年)12月5日)は、江戸時代末期の大名。若狭国小浜藩の第12代藩主。最終官位は従四位上少将・修理大夫。第10代藩主・酒井忠進の子。
通称は与七郎、悠之丞。名は忠義のほか、忠禄。幕末期の幕政に参与し、1843年から1850年と1858年から1862年の間、京都所司代を務めた。1858年に徳川家定の後継ぎをめぐって後継者争いが起こると、徳川家茂(慶福)を支持して一橋派を弾圧した。このため、これが後の井伊直弼による安政の大獄の一因を成したと言われている。また、和宮降嫁など、公武合体にも尽力した。1873年、61歳で死去。

酒井忠義 (出羽国庄内藩主)
酒井 忠義(さかい ただよし、寛永21年7月5日 (旧暦) 7月5日(1644年8月7日) - 天和 (元号) 天和元年11月7日 (旧暦) 11月7日(1681年12月16日))は、江戸時代前期の出羽国庄内藩3代藩主。
父は酒井忠当、母は松平信綱の長女。従四位下、左衛門尉を称する。
万治3年(1660年)2月、鶴岡にいる父忠当が重病となったため、江戸から鶴岡に向かったが、到着前に忠当は死去した。
4月5日、忠義が家督を相続する。
若くして当主となったため、母方の祖父である松平信綱の指導により藩政が進められた。
天和元年(1681年)に死去、墓所は大督寺。
江戸の大名 さかいたたよししようない
譜代大名 さかいたたよししようない


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